知識・技術の制限は社会でどこまで必要か?

2022年8月1日

 7月に起きた安倍晋三元首相の銃撃事件は社会に大きな影響を与えた。報道各社は連日大きく取り上げたが、その際にテレビで黒色火薬の製造法が紹介された事が物議を醸した。テレビでなくとも書籍、さらにインターネットで手軽に情報が手に入るこの御時世、興味を持ったら容易く情報は手に入る。 但し積極的に調べずともチャンネルを合わせれば一方的に情報が提供されるテレビにおいて「あえて教える必要はない」とも考えられる。
 だが「知識・技術の取得」と「製造・使用」してしまうのは別段階であり、何か事件・事故で問題が起こるととりあえず過度に規制・禁止して制限しようとするのは、問題と向き合わず思考停止となるおそれもある。
 知識・技術の制限。ねじも江戸時代に銃の尾栓製造に繋がる技術として火薬と同様に管理対象な技術であり、大衆にとって「釘はあってもねじは普及していない」社会だった。その影響もあり狩猟用として火薬を使わない空気銃が開発・発展して使用されていた例もある。
 しかし完全に禁止はされてはおらず火薬は時に花火として、ねじを使用していた銃は実戦よりも競技用としての面を強くしながら製造・使用され、訓練も行われていた。そう、知識・技術は保存・継承や製造・使用されなくなると時間の経過とともに自然と失われる傾向にある。いざ必要となった時に困らないよう、維持していたのだろう。
 話は変わって今年の夏。東日本大震災以来全国各地で原子力発電所を停止していたが、猛暑で高まる電力需要、さらにロシア・ウクライナ間の紛争をはじめ国際情勢でエネルギー資源価格の高騰に対応するべく、稼働に向けて動き出した。
 それまでの約10年間、各地で再生可能エネルギーとして太陽光発電施設や風力発電施設が建設され稼働してきたが、安定的な電力源とはならない点、特に太陽光発電施設が設置された山野は元々あった森林を失って保水力が低下し土石流も起きている等、長所短所が分かってきた。
 その一方原発はSDGsの一部の観点から、火力発電よりも二酸化炭素排出が少ない点で評価されつつある。そもそも東日本大震災発生時の被災で直接的に問題なのは東北地方太平洋岸という数十~数百年単位で定期的に発生する大地震・津波対策を疎かにしていた事ではないか?事故は起きない前提とせず、予防策と対応策、さらに言えば責任の所在を決めておく事が必要で、その期間にもコストをかけて改良もなく維持するだけで過ぎていった。
 どんな知識・技術もそれ単体が問題なのではない、それを使いこなせない事や過度な制限に走ろうとする事が問題なはずだ。

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