動的平衡

2020年1月24日

 京都・妙心寺退蔵院の松山大耕副住職の講演を聞く機会があった。「今はメーカーにしろ、サービス業にしろ、中途半端なものばかり作っている」と副住職は言う。
 例えばラーメン屋を立ち上げるとする。マーケットリサーチをし、太麺が良いのか細麺が良いのか、スープはこってりが良いのかあっさりが良いのか、具は…といった具合で答えを導き出す。すると「不味くないラーメン」が出来上がる。一方、美味しいラーメン店の店主の心持ちはこうだ。「俺が美味いと思うから食え」。
 例えば寺とディズニーランドを同じ評価軸で計れる訳がないのに、ネットのトリップアドバイザーでは全てを並列にして口コミによる点数化が行われる。グルメも然りで、食べログの点数が高いから即ち良い店という訳ではなくて、自分が良いと思うから良い店なはずだ。
 要は仕事でも自分が「最高だ」と思うことが大事なのであって、「自分がどう思うか」という肝心な部分をアウトソーシングしてしまってはいけない。本当に自信があるのか、言い訳を外に求めていないか、戒めたい所である。
 極端な例だが、2度の墜落事故を起こしたボーイング737MAXに関して、開発段階で交わされた社員同士のメールには「自分の家族を乗せたいか?私は絶対に嫌だね」とあったそうである。
 スティーブ・ジョブズをはじめ外国人にも禅の愛好家は多い。ジョブズがそうだったかは分からないが、華やかな先端産業の裏には不安がつきまとう。「今日新技術に追い抜かれはしないだろうか」。「今日成功するかも知れないし、どん底かも知れない」。そういう生き方を否定する訳では無いが、まさにジェットコースターの様であり疲れるのだ。
 そういった外国人たちは、禅寺が何世紀にも渡って組織を継続させている理由を掴みに来る。松山副住職は長く継続する理由として、修行によって哲学を伝承している点の他に、「動的平衡」を挙げる。
 嵐山を流れる桂川では手漕ぎボートが楽しめる。そこでもしも「止まれ」とだけ言われた場合、体を動かすのを止める(漕ぐ手を止める)か、漕ぎながらそのポイントに止まる(留まる)かは悩ましい選択である。しかし漕ぐ手を止めた場合、桂川を下流へと流れ流されて、ウイスキーの山崎あたりで宇治川と木津川と合流し淀川となり、大阪はUSJまで遥か長い旅路をゆくハメになるだろう。
 そのポイントで止まりたければ、体を動かし続けるのが前提となる。不易流行、変わらないためにも変わり続けることが大切だ。ボート(組織)は留まり続けるつもりでも、川(外部環境)は流れ続けているのだ。

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