選択と集中、何を得て、何を失ったか

2020年1月12日

 新天皇即位と新元号「令和」への改元で最初の正月。今年の十二支は「子」で新たに一巡が始まり、時代の節目を迎えたと呼ぶにふさわしい。
 「平成」の約30年と4カ月。世の中で広く使われるようになった外来語・和製英語・造語―等といえば、リスク=危険・不確実性、リターン=収益、リソース=経営資源(ヒト・モノ・カネ)、コスパ(コストパフォーマンス)=費用対効果、そして「選択と集中」が思い浮かぶ。
 これらの言葉から今まで日本社会は何を大事にし、蔑ろにしてきたか?何を得て、得られるはずだったか?何を失ってきて、失わずに済んだのか?そしてこれから何を得ようとして、失いつつあるのか?過去からの選択(判断・行動)の結果として現在があり、そして未来が造られるが、選択(道)を誤る。それも何度も失策に失策を重ねたとしか思えない。
 「和魂漢才」「和魂洋才」の言葉にあるように、日本社会は問題を抱え衰退しつつある時に、外部を手本とし風習・方式を捨拾選択し改めてきた。明治維新において「今までの悪習を断ち切る」事が目指されたが、「昭和の悪習を断ち切る」事は出来ているだろうか?
 冷戦終結で自由主義・資本主義陣営は第三次世界大戦が起きずに不戦勝となっただけではないのか?株価の高値が報じられても実体経済は一向に良くならず、「数字は数字でしかない」のだろう。「今だけ、金だけ、自分だけ」で、「経世済民」の精神を伴わない資本主義経済となっていないだろうか?
 教育行政という国策なのに「ゆとり世代」は揶揄されるが、彼らは本当に「ゆとり」があるのだろうか?彼らが得られるはずの「ゆとり」を享受する「本当のゆとり世代」がいるのではないか?一方「氷河期世代」だけでなく、景気が回復すると思われた時期にリーマンショックや東日本大震災による、さしづめ「小氷期世代(年代)」も問題だろう。そして少子化問題に対し社会全体が割くべきリソースを渋り、現在は人手不足となって、放置したツケが「後で高くついている」状態だ。
 未来は分からない。しかし未来を見据えず、後々の結果に後悔する覚悟なく、場当たり的な「選択と集中」や、時に「選択しない選択」を繰り返してきた結果が現代日本だ。
 〝良禽(酉)択木〟だというのに、〝狡兔死、走狗(戌)烹〟をやってきて、〝伊吹山の白猪(亥)〟のように先に対処すべきだった問題を後回しにしてきたように思える。燃え盛る草むらをやり過ごせる「内はほらほら、外はすぶすぶ」な穴を探し当てる、危機回避に長けた〝根住み=鼠(子)〟は、この国の行く末をどう見ているだろうか。

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